戦後の暮らし
大字河沢常会記録から戦後の暮らしを見つめました。正確な人数は分かりませんが多くの人が疎開していたと思われます。帰京の際に御明し料としていくばくかの寄付をされて帰られたようです。
河沢は殆どの家が農家であったため主食の米には困らなかったでしょう。野菜も同様、しかし肉類は分かりません。魚の配給は、鰊、鰯、そして魚粉佃煮の記載があります。魚粉佃煮は今では想像がつきません。多分、柿崎にも近かったので魚を手に入れる何らかの方策があったのでしょう。肉は鶏や兎を飼っていたので事足りたことでしょう。軍用兎の供出に関する記事が何度もありましたから。
昭和22年に発生した昭和南海地震や柵口の地すべり(旧能生町柵口)に対する義援金の記載がありました。また、長岡空襲の復興資金に対する支援の記録もありました。災害等の歴史は学んだと思いますが記録に残っていたとは驚きです。
河沢は吞兵衛の故郷、やはり酒の配給の記載が目につきました。しかし、配給では足りなかったことでしょう。古老から濁酒(どぶろく)の話を何度か聞いたことがあり、杜氏の故郷、お手の物であったでしょう。酒に関するものは後日にいたします。