登録有形文化財 善徳寺経堂
真宗大谷派横田山善徳寺は、新潟県上越市吉川区国田(こくた)に所在する。
善徳寺の古文書等を基に作成された「親鸞聖人七百回御遠忌記念 横田山善徳寺」によると、善徳寺の住職を務める横田家の初代である源八は、甲州武田信玄の家臣であったが、兄弟3人で越後に来て越後国三島郡苅羽之荘折居村(現新潟県柏崎市折居)で仮住まいを経たのち1560年頃に国田に到り、善徳寺(真言宗高野山の末流で春日山上杉家の祈願所であった。上杉景勝の会津移封に従い移転した。)の許しを得て現在地に居を構えたと「横田家代々申し送りの文」等に記されている。言い伝えでは長兄は現在の柏崎市阿相島に、次兄は吉川区川谷に、末弟の源八が国田に土着したとのことである。
源八は国田に来たときにはすでに本願寺八代蓮如上人の名号を持っていたと伝えられているが、浄土真宗に改宗の休善に深く教化を受けたものと思われる。休善は1598年に上杉移封に伴って善徳寺が移転した後、1606年に現境内地に道場を建て、源八と浄土真宗としての善徳寺再興を誓い合ったと伝えられている。
横田家は次第に地主として財力を蓄え、七代目惣兵衛の二男重蔵が上越市三和区本郷の西勝寺の弟子(法名利観)となり1773年に横田家の屋敷内に道場草庵(現在の本堂)を開いた。利観死亡後は、惣兵衛が剃髪、善照と改名し道場に入り、1780年に東本願寺から寺号を得て善徳寺を創建した。
善徳寺の経堂(経蔵・経庫とも呼称される。)は、切石で積まれた檀上積み基壇(高さ99cmで約4間四方、切石は上越市柿崎区産の中山石(凝灰岩))の上に唐破風(からはふ)向拝付け方形造(ほうぎょうづくり)(宝形造)で露盤宝珠を乗せた桟(さん)瓦(がわら)葺きの覆堂(おおいどう)(鞘堂(さやどう))を設けた土蔵造りである。覆堂の柱や梁等の部材には耐朽性に優れている欅材を多用している。
覆堂には寺院建築の細部意匠が多く施されている。虹(こう)梁(りょう)・木(き)鼻(ばな)・蟇(かえる)股(また)、組物(斗栱(ときょう))、唐破風懸魚(げぎょ)(兎(う)の毛通(けどお)し)、彫刻、鬼瓦、向拝柱根巻、露盤宝珠等がある。兎の毛通しの鳳凰(瑞鳥をあらわす)、降り懸魚の青桐の葉(「鳳凰は梧桐(ごとう)にあらざれば栖(す)まず」に由来したもの)、木鼻の獅子(魔除け)、向拝の龍(仏様を守る霊獣)・花鳥の彫刻は、寺院建築の荘厳さを良く表している。なお、木鼻獅子の鼻の中には彩色の跡が残っており、建築当時の彫刻は彩色されていたものと考えられる。
覆堂屋根は、宝形造りで反(そ)りをいれた桟瓦葺きで隅棟(すみむね)鬼瓦を置いている。軒は地(じ)垂木(たるき)と飛(ひ)えん垂木で構成する二軒(ふたのき)垂木(平行垂木)である。屋根の繊細な曲線は、えもいわれぬ美しさをつくりだし、また、下から見上げる二軒垂木や反り具合は、重量感と美しさを醸し出している。
覆堂の東・西・北面外壁の腰壁は、耐火性や耐久性を持たせた焼杉板による押縁下見板張で上部は開口になっている。覆堂の正面は開口になっており、土蔵の入口を除き左右は腰壁の高さに合わせ焼杉板の金剛柵が設けられている。
土蔵内部の天井・壁・床は、すべてが杉板張りになっている。格(ごう)天井にはあざやかな色彩の花鳥が描かれており(作者不明)、建設当時のままの色合いを残している。
土蔵内の真ん中の須(しゅ)弥(み)壇(だん)上の厨子には、檀信徒の信仰の対象でもある「善徳寺のお釈迦さん」と親しまれている釈迦仏がおさめられていた。しかしながら、平成19年の中越沖地震により厨子は大破したため釈迦仏は、現在本堂に仮安置されている。
向拝彫刻裏に、三島郡/池山甚太郎政信作/脇野町と刻銘がある。池山甚太郎は、平成21年3月曹洞宗国華山高龍寺発行の東京大学大学院工学系研究科建築学専攻建築史研究室編集「高龍寺建造物調査報告書」によると、「嘉永2年(1849)7月10日新潟県三島郡脇野町吉崎(現長岡市)に生まれ、明治37年(1904)1月24日高崎で没し」とある。棟札や刻銘で池山甚太郎の作として明確な建造物は、柏崎市の番神堂・閻魔堂・日吉神社、長岡市の治暦寺、刈羽村の善照寺経蔵があり、伝承や研究により池山甚太郎が関わったとされる建造物は、上越市の浄興寺本廟、北海道函館市の高龍寺本堂、北海道増毛町の厳島神社と記されている。当該覆堂の棟札は不明であるが、彫工池山甚太郎は柏崎市の宮大工四代篠田宗吉と多くの仕事をともにしていることから、当該鞘堂は篠田宗吉一門の手による建築である可能性がある。
土蔵に収蔵されていた鉄眼版一切経の運搬状況を記した「道中人馬駄賃帳」によれば慶応3年(1867)8月23日に善徳寺に一切経が到着したとある。口伝では、当初の経堂は現在位置より庫裏に近い位置にあったと言われている。当該覆堂の向拝柱根巻に「明治34年10月」、露盤宝珠に「明治34年11月」鋳工(ちゅうこう)山崎九郎兵衛(鋳造師山崎九郎兵衛)とそれぞれ刻銘があることから、当該経堂は明治34年(1901)頃に位置を替え再建されたものと推定される。なお、鉄眼版一切経は、入れた棚が破損したため玄関座敷の一室に仮収蔵している。
昭和60年新潟県教育委員会発行「新潟県の近世社寺建築」-新潟県近世社寺建築緊急調査報告書-によると新潟県内の調査対象となった経蔵は、善徳寺の経蔵も含め23である。経蔵は、仏教寺院の主要伽藍のひとつであるが、経蔵を備えた寺院は県内には少なく、善徳寺の経蔵は貴重な建築遺産とともに、明治時代の寺院建築様式・建築技術を現代に伝える貴重なものである。
覆堂屋根の宝形造の美しい建築造形、土蔵の白(漆喰(しっくい)の色)と雪害から土蔵を守るための覆堂の焼杉下見板の褐色や屋根瓦の黒とのコントラストを醸し出している様は、新緑、花、紅葉、雪景色など四季折々の美しい長閑な山里の自然風景と良く調和しており、その景色は日本の心の原風景と言っても過言ではない。
なお、当該経堂は2007年(平成19年)7月16日の中越沖地震により覆堂の屋根瓦の落下、土蔵の漆喰壁の破損、釈迦仏を安置する厨子の破損、収蔵していた一切経の散乱等の甚大な被害を受け、耐震補強及び修理が必要となっている。
平成27年8月4日に登録有形文化財に指定される。
ミニ博物館
歴史と文化のまちづくり研究会では、経堂をホームグラウンドとして歴史資料、写真、絵画等を展示公開いたします。
ミニホール
歴史と文化のまちづくり研究会では、経堂において地域に関するミニ講演会等を行います
経堂の保存活動
経堂は、中越沖地震で甚大な被害を受けました。再度、同程度の地震が起こった場合、このままでは倒壊してしまいます。
経堂は、造詣の規範となっているとして平成27年8月4日に有形登録文化財の指定を受けました。四季折々の善徳寺山を背景に建つ様は、日本の心の原風景を醸し出しています。歴史と文化のまちづくり研究会では、この経堂の保存活動を進めてまいります。