入河沢城
「入河沢城」は、別名「河沢城」又は「牛ヶ頸城」とも呼ばれている。
入河沢城は、文献に一度も登場したことがない幻の山城であり、築城年代は不明である。(新潟県埋蔵文化財包蔵地一覧表では室町時代(南北朝時代)の遺跡としている)堀切、土塁、虎口の形状から戦国時代にも改修され機能していたものと思われる。
寛政八年(一七九六年)の入河沢村明細帳によれば「古城一ケ所 是者春日山上杉謙信公御家人吉井喜四郎殿申御人御在城之由申伝候」とあり、天明期(一七八〇年代)と推測される天林寺村明細帳には「字あと塚古城跡一ケ所 上杉景勝公御時代吉井喜四郎様古城之由申伝候得共・・」とある。明治二十四年刊行の温故之栞には「入河沢山牛ケ頸の古城は貞治(じょうじ)年中(一三六二~一三六七年)より国守上杉憲顕の一将吉家(よしいへ)家(後吉江と改)の居城とす 永禄年間(一五五八~一五七〇年)の当代吉江喜四郎定治は武勇に秀で春日山の城番頭を勤む 天正年中主家遺跡争への節景虎に属して討死す」とある。
謙信・景勝の家臣に吉井喜四郎、吉江喜四郎定治という家臣はいない。上杉家軍役帳等に吉江喜四郎資堅(すけかた、改名し信景)がいるが同一人物であるかどうかは不明である。今後の調査を待ちたい。
室町時代の守護所(行政府)は府中(府内ともいう、直江津駅周辺)に置かれており、米山以南を上郡(かみごおり)、信濃川流域等を中郡(なかごおり)、阿賀野川流域を下郡(しもごおり)と分けて呼んでいた。中郡・下郡と府中を結ぶ道としては、北陸街道又は北国街道と呼ばれていた海沿いのルートと柿崎区の小村峠越えと吉川区の桜坂峠越えのルートがあった。
第三代越後守護上杉房方は、中郡の北条毛利氏、安田毛利氏などの国人領主をけん制するために息子清方(一四一二?~一四四四年)を鵜川沿い(現柏崎市)の上条城(じょうじょうじょう)に配した。府中と上条城を結ぶ桜坂峠越えのルート上にある入河沢城は、桜坂峠越えの街道を押さえる城としての役割を担っていたものと思われる。
入河沢城の見どころとしては、南尾根曲輪群(くるわ)の堀切(空堀)、横矢掛け・坂形式の堀込虎口(こぐち、城郭の出入り口)、坂虎口、主郭部へ登るための橋の橋台と思われる盛土、東尾根曲輪群にある穴(進路を狭めるために築いたものと思われる)、西尾根曲輪群にある切り出し土塁がある。
入河沢城祉への道
入河沢城址