甦る元禄9年村絵図
【村絵図】(梶大瀧家文書 新潟県立文書館提供)
梶の大瀧家に元禄9(1696)年の大賀村、山直海村、米山村、岩沢村、長坂村、道ノ下村、福平村、入河沢村などの村絵図が残されており現在新潟県立文書館に寄託されています。本誌において、長坂村、道ノ下村、福平村、入河沢村、大賀村、山直海村(岩沢村含む)、米山村の村絵図について紹介いたします。
大賀村
元禄9(1696)年大賀村明細帳に観音、権現、天神の3宮が記載されている。村絵図には神社名が記載がない1堂のみが描かれています。現在、木花開耶姫命(木花咲耶姫)を祭神とする浅間社が残っていますが、合併等の事実はありません。
村明細帳には、かた木、さい京田、山崎の3溜池が記載されています。現在、下溜とすりはち池が残っていますが経緯は不明です。
なお、慶長2(1597)年の越後国頚城郡絵国では3軒とあります。(出典 : 吉川町史)
昭和50年代に廃村となってしまった貝平に3軒の家が描かれています。山直海の中條から大賀を通り浦川原区の猪子田へ続く里道が描かれています。また、大下から貝平・大賀への里道も描かれています。
絵図には10戸が描かれています。
明治22(1889)年には36戸234人(出典 : 吉川町史)
山直海村・岩沢村
報恩寺と専徳寺(一向宗専徳寺と表示、一向宗は浄土真宗のこと)が絵図に描かれています。報恩寺は天平勝宝6(754)年の創建、開山は渡来僧の鑑真和上と伝えられています(出典 : 吉川町史)。しかし、32世の堯泉上人(寛永5(1628)年没)までの記録はないとのことです。寺院明細帳には高野山真言宗心南院末となっていますが、心南院は鑑真和上の開山とする報恩寺の本山とするには疑問があります。
寛政8(1796)年山直海村明細帳に専徳寺地中(寺中)に京徳寺と善立寺が記載されていますが、寺院明細帳によれば善立寺の創建は正徳6(1716)年とのことで、まだ絵図作成時には存在していません。また、現在大島区田麦に移転している京徳寺も享保20(1735)年の創立ですので同じく存在していません。
絵図には、伊豆権現(村屋)、諏訪大明神(稲場)、観音堂(川袋)が描かれています。吉川町史の報恩寺の項に、元川袋にあった観音堂の本尊観世音菩薩像が道路改修の折報恩寺に移設されていると記載されています。また、伊豆神社の神社明細帳には明治40(1907)年に諏訪神社を合併したと記載があります。
なお、寛政8(1796)年山直海村明細帳の神社境内面積の対象として観音・薬師・八幡社内とあり、神社祠として稲荷大明神、諏訪大明神とありますが、観音は観音堂、薬師は?、八幡社は八幡宮、稲荷大明神は?、諏訪大明神は諏訪神社と考えられます。村絵図の中の伊豆権現が薬師?、稲荷大明神?、全くわかりません。
八幡宮は、宝暦7(1757)年に現在地に転遷したと神社明細帳に記載されていますのでまだありません。
宝永2(1705)年山直海村明細帳に家数66軒と記されていますが、元禄9(1696)年の村絵図には50軒が描かれています。
慶長2(1597)年の越後国頚城郡絵国では32軒とあります。(出典 : 吉川町史)
明治24(1891)年 戸数109戸729人(出典 : 吉川町史)
岩沢村は、山直海村絵図の中に描かれています。
絵図には6戸が描かれています。
明治22(1889)年 9軒49人(出典 : 吉川町史)
岩沢村の背後に神明の文字が書かれています。元禄9(1696)年の岩沢村明細帳には宮屋敷2畝歩神明と記載されています。神社明細帳には明治40(1907)年に山直海村八幡宮に合併と記載されています。
米山村
村絵図に、上吉井、下吉井、入河沢、山中へ通じる里道が描かれています。
村絵図に、薬師、諏訪大明神、観音堂の名前があります。宝永2(1705)年の村明細帳には、諏訪大明神、薬師、観音寺と記載されています。神社明細帳には諏訪神社が登録されています。
絵図には8戸が描かれています。
明治22(1889)年12軒71人(出典 : 吉川町史)
福平村
白山社は、村絵図では白山権現と書かれています。元禄9年福平村諸色指出帳には白山権現社となっています。明治元(1868)年の神仏判然令により白山社になったものと思われます。
村絵図には、溜が4ケ所記載されています。村絵図と同年に作成された元禄9年福平村諸色指出帳に八拾苅、けいさんいり、前ノ入、西ノ入の4つの溜池が記載されています。現在もケサンガ入、八十刈、前ノ入、西ノ入として残っています。
養善寺は寺院明細帳に元禄元辰年創立と記載されていますが、天明6(1786)年の「本誓寺文書」に「・・・此度福平村ニ建立仕度・・・」と吉川町史に書かれています。このことから村絵図の描かれた元禄9年には養善寺はまだありません。
絵図には16戸が描かれています。
明治24(1891)年には24戸164人(出典 : 吉川町史)
長坂村
長坂村について明らかな資料は次のとおりです。
慶長2(1597)年 頸城郡絵図 縄ノ高2石7斗、家数1、人数2(出典 : 吉川町史)
文化1(1804)年 長坂村差出帳 田高149石⒋斗⒋升8合(出典 : 吉川町史、善徳寺文書)
此反別11町⒋反1畝20歩
畑高10石8斗⒋升9合
此反別2町3反5畝22歩
民家無御座候、国田村百姓唯八所持仕候
文化8(1811)年 長坂村明細帳 当村民家無御座候、国田村百姓唯八越石二所持仕候
(越石 : 百姓が自村以外に石高を所持すること)
天保9(1838)年 長坂村明細帳 民家無御座候、国田村百姓唯八越石二所持仕候
明治22(1889)年 長坂2戸12人(出典 : 吉川町史)
国田八木家2代平右衛門(寛永12(1635年)没)の時に長坂村古高140石の村方不定地(田畑のうち水害などで一定の収穫を得られず、年貢高が定められていなかった土地)を田地に起返(耕地の荒廃したもの復旧すること)したことにより高田藩郡奉行より長坂村は諸役御免のうえ定免(年貢高を固定し,ある一定期間,豊凶にかかわらず納めさせる方法)とするという御証文をもらっている。
寛永17(1640)年3月長坂村では、逃亡百姓がでたので年貢をさげたことがある。 (出典 : 吉川町史)
元禄9(1696)年の長坂村絵図には、民家がなく庄屋(国田八木家6代 平助、享保4(1719)年没) の管理棟のみが描かれています。
不明確な点はありますが、万治4(1661)年「国田村、長坂村惣百姓、走り百姓につき連判詫び一札」(吉川町史資料集 村極・外)に長坂村百姓3名が連記されていますので1661年頃までは農民が住んでいたようでありますが、1696年までに欠落(走りともいう、重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること)等の理由で農民がいなくなってしまっていることが村絵図から明らかになっています。ただ、元文5(1740)年国田村長坂村宗門御改帳に「長坂村只八 田地守」として親子3名が記載されていますので、人は住んでたと思われます。
絵図には、国田から山越えをして長坂を通り道之下へ通じる里道が描かれています。
道之下
村絵図では、村の名前が堂之下村となっています。下美守郷の村絵図は同一人が描いていますので単純な間違いかもしれませんが、慶長2(1597)年の越後国頚城郡絵図には「たふの下村」と書かれています。歴史的仮名遣いで「たふ」は、現代仮名遣いでは「とう」となり、漢字にすれば「塔」が当てはまるのかと思われます。「堂之下」ならば「だうの下村」と表記されると思われます。何れにしても「塔」「堂」は仏教的な感じがします。
真宗大谷派明善寺は、昔は「いこいの広場」の脇の畑にあったと語られていますが、元禄9年村絵図では同じ位置に描かれています。この移転のことは、昭和60年新潟県近世社寺建築緊急調査報告書に、「明善寺5代寛了(明和3年・1766没)が現地に寺地を移した。本堂は棟札に「享和3癸亥歳(1803年)再興」「棟梁篠田惣吉、増田徳兵衛」とあって、年代、大工ともに明らかである。」と明らかになっています。
村絵図からは、福平からの里道が現在の明善寺付近を山に入り杉の谷溜(元禄9(1696)年道ノ下村諸色指出帳には杉ノ屋溜となっている)の淵を周り町田へ通じていました。玄僧への道も描かれています。なお、西側の山の殆どが御林となっています。
ところで、埋蔵文化財包蔵地に普門寺跡(道之下字普門寺)と忘念寺跡(道之下字忘念寺)があります。字普門寺は、現在の明善寺の南側の位置にあたり、字忘念寺は天神社の南側の山腹に当たります。
明善寺の明細帳(新潟県神社寺院仏堂明細帳)に、「口碑ニ伝ル趣ハ往古真言宗ニシテ普門寺ト称シ候処永正12(1515)乙亥年創立開基専融ノ代当宗ニ改メ」とありますので明善寺の前身は普門寺であり、1515年以前から存在していたということになります。一方忘念寺については全く不明な寺院です。
何れにしても普門寺か忘念寺の塔か堂の下にあった村とのことで、「塔之下」又は「堂之下」から「道之下」に変化したものと思われますが定かではありません。なお、原本の確認はしていませんが、村絵図と同年に作成された元禄9年道ノ下村諸色指出帳では「道ノ下村」となっています。
絵図には明善寺を含め35軒が描かれています。
明治22(1889)年には57戸302人(出典 : 吉川町史)
入河沢村
天林寺村・吉井村境の北の外れに堤(溜池)の表示がありますが、寛政8年及び文化8年の村明細帳には溜池の記載はありません。現在、入河沢に大坂溜がありますが絵図に描かれている位置が異なります。
元禄9(1696)年当時、入河沢川の流路は集落内の途中で分岐し、また合流していたようです。大日本陸地測量部が明治43(1910)年に測量の流路と河川改修前の流路は異なっています。昭和5年と昭和21年に入河沢川の洪水がありましたが、入河沢川は暴れ川であったと思われます。
村絵図に泉谷と米山へ通じる里道が描かれていますが、山越えの国田に通じる里道も描かれています。
絵図には13戸が描かれています。
明治22(1889)年には16戸106人(出典 : 吉川町史)